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<気ままな思考>

 近頃、朝目が覚めて、夜休むまでの時間がものすごく短く思います。この年齢に達しやっと人間とは生まれたままでは、うまく育たないものだとしみじみ考えます。気ままに育った自分を見ると、考えることが好きな質かもしれません。けれども、そこには安定という重点が欠けていたかも知れません。

 いま、一日一日が充実したとも思いません。が、その必要を認めながらも、ダウンしたり、倒れたりしないように、関係を支えるという意味がまわりの方々には、よく理解されていないようです。そのような意味あいから、大事なことだけは整理して残したい気持ちでメモ代わりにブログを立ち上げました。

 と、ねらいを定めても、朝は早くから目が覚め、一通りの整理をし終え、朝食をとるころにはもう眠気を覚えます。それに、後ろを振り返ると、なんと、あさはかなことを積み重ねてきたのだろうといつも悔やむおろかな人間です。で、今日限りではない。と、思いながらもこの心境は、誰でも経験する加齢による心身の変化なのでしょうか。

 いままで、誰かが側で支えないと、人が育たないことをいやという程見てきました。多くの人々との出会いはありますが、真の人材となるとさびしい限りです。その意味で、私の思いが役に立つことであれば私の存在にも意味があると思って雑記ノートの整理を続けることにしました。

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人間コミュニケーション

2008/08/03 09:15
人間コミュニケーションの語用論は幼児期の、やっと自分の名前が読み書きできるくらいの科学である。とくにそうした研究が、コミュニケーションの研究を相互プロセスとしてみている点が欠けているときは、なおさらである。この文章は、行動障害にとくに注意を払いながら、人間コミュニケーションの語用論的(プラグマティック)な効果(行動的な効果)を扱うものである。

それは本書が、その主題に直接関連のある重要な研究を無視しているという批判もあろうが、言語によるコミュニケーションは文法的、統語論的基礎さえ体系化されていない上、人間コミュニケーションの意味論を包括的枠組みの中に組み入れることの可能性に懐疑が高まっている。

人間コミュニケーション理論について他に多数の研究があるが、それらに触れることも、同じ理由から制限しなければならない。すなわち、引用が引用自体に置いて、何かを説明しようとしているのではない。しかし、書きたいことは、ほとんど注目されていなかった分野である人間コミュニケーションの語用論への導入以上のものではない。

つまり、こうした例や類推は定義モデルであって、予測的(断定的)モデルではない。同様に、人間はその存在の最初から、コミュニケーションのルール獲得という複雑なプロセスに関わっていることも明らかである。主題の学際的意味あいは、その提示の方法に反映されている。
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人間コミュニケーション

2007/03/10 11:38
人間コミュニケーションの語用論は幼児期の、やっと自分の名前が読み書きできるくらいの科学である。とくにそうした研究が、コミュニケーションの研究を相互プロセスとしてみている点が欠けているときは、なおさらである。これは、行動障害にとくに注意を払いながら、人間コミュニケーションの語用論的(プラグマティック)な効果(行動的な効果)を扱うものである。

それは、その主題に直接関連のある重要な研究を無視しているという批判もあろうが、言語によるコミュニケーションは文法的、統語論的基礎さえ体系化されていない上、人間コミュニケーションの意味論を包括的枠組みの中に組み入れることの可能性に懐疑が高まっている。

人間コミュニケーション理論について他に多数の研究があるが、それらに触れることも、同じ理由から制限しなければならない。すなわち、引用が引用自体に置いて、何かを説明しようとしているのではない。しかし、書きたいことは、ほとんど注目されていなかった分野である人間コミュニケーションの語用論への導入以上のものではない。

つまり、こうした例や類推は定義モデルであって、予測的(断定的)モデルではない。同様に、人間はその存在の最初から、コミュニケーションのルール獲得という複雑なプロセスに関わっていることも明らかである。主題の学際的意味あいは、その提示の方法に反映されている。
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やっとログインできました。

2007/03/06 17:39
ブラウザをエクスプローラーに変えました。

ネスケをずっと愛用していたのですが、JAVAもクッキーも要求どおりフリーにしたのですが、どんなことわしても、管理が面からプログメニュウには、入れませんでした。

これで何とか目安がついたようなので、書き込みができるようになりました。

だいぶ休んですみませんでした。また、再開したいと思います。よろしくお願いいたします。 
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「<他者の立場でものを考える>」について

2006/10/20 07:15
<他者の立場でものを考える>」について
 密接距離・個体距離・社会距離・公衆距離など?  人の記憶学習実験というふれこみで被験者になる人を募り、先生役と生徒役に分けて、先生役には真の被験者、生徒役にはサクラを仕組みます。社会的存在としての人間、人間は生まれて社会の一員となるために、所属する社会の規範を内在化しつつ成長します。「若い」ということは相対的なことで、若い人といっても私より若い人を差すのか、それとも私のように! 学校社会が一般社会と隔絶しているために、生徒・学生に社会的役割感が希薄であるという特徴があります。なぜ人と距離を取りたがるのかは、簡単には、発達途上での対人不安克服の失敗から来るものであると言えましょう。 

「社会的促進」ーー集団状況下で行動が促進される(socilization)、または抑制されること。社会的集団的ふるまいを扱う社会心理学の立場。「対人距離」ーー自分の回りに他人が入ってほしくない境界線のことです。若い人との付き合い児童の非社会的行動というのは、親の過保護や仲間との対人接触が少ないことが原因で社会化が不十分で極端に内向的となったりする場合を言います。児童集団にも所属したくないが、成人集団に受け入れられているわけではない、周辺人(marginalman)というのが若者の状況なのです。「対人認知」ーー自分がどういうものかをが知る基礎となる能力(person perseptio)。心理学とは何か心理学に対しての一般の人が抱くイメ−ジには少なからぬ誤解があるように思います。社会化で最も重要なのは、自分と相手との関係の認識です。

 直接、対人的理解を図ろうとする臨床心理学の立場。例えば、人の心が読める、占い術というような見方です。現代は対人接触によって、対人不安を克服する経験を積む場面がとても少なくなっており、年代の違う人と接触する機会も少なくなっています。「アイデンティティ(自己同一性)」ーー自分が何者であるかという一貫した意識、分かり易く言えば、地域、職場などの集団内での役割を自分が受け入れて、自分の位置付けを認識していくことを指します。心理術と呼ぶべきものです。内向的な人はネガティブな方向に出たり、その人の弱い部分に噴出してきます。まず心理学について少し説明をしておきます。

 よく見れば100%答えられる問題であるのに、被験者は心中ウソと思いながら、わざと間違う大勢のサクラに同調してしまうのです。相手はどういう状況にあるのかを思んばかって振る舞うことが必要ですか、若い人は経験不足から往々にして間違いやすいものです。人間を情報処理システムとみなすものなど、心理学が扱うレベルは様々です。この実験は、小さな集団内での心中悩みつつも権威者に従う同調行動をよく表わしています。他人と自分との関係を認知しながら成長することを、社会化と呼びます。相手に対しての評価には文脈というか、順序が大変重要であることが分かります。人間が社会的存在であるということを示す、いくつかのキ−ワ−ドを説明します。最近の若い人の特徴として、未分化なコトバがあります。

原典現代社会の対人関係と心理学

参照:http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/v-kouza/www/97no2.html
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<人間は刻々と変化するもの>

2006/10/18 09:00
 どう思うかな」という。自分が勝手にそう思っている利益や利点だからである。その時は、適切な刺激と共に、自覚(相手の自己覚知)や自己啓発を促すように考慮すべきで、決して命令で片づけようとは思わない方がよい。もし言いたくなった場合には、自分が相手を変えることができなかったという責任を感ずべきで、耐えて待つことも必要となる。君が今目指している方向とは別に、×××の方向もあるんだ。第四に述べたいことは、人間は刻々と変化するものであるということである。それは、どう思うかな」という。

 まだまだ言い足りない部分、言いのこした部分もあるが、果てしなく書き続けるわけにも行かない。なぜなら、それは相手が見た利益や利点ではないからである。以上の五つが終章で述べておきたいことである。最後の最後になるが、人間は決して一人では生きてゆけないことを記して筆を置くことにする。決して、「こっちの方向には、 ×××という利点や、○○○という利益があるし、そのうえ△△△というおまけまでついているぞ」とは言わない。「君は○○○の方がいいと思っているんだネ。

 ひとまずこの節で括ることにする。第五に述べることは、関係的存在としての人間は、自らの“内なるもの”が“好ましい”と思う方向に向いていると言うことである。「あいつは駄目な奴だ」という言葉には注意を要する。したがって、相手の関係的存在の様式や核がわからないうちは、無理にその方向を変えようとは思わないことである。ではこういうことは考えられないだろうか。

 ただ待つだけでは意味がない。相手との会話の中で人生を変えてしまうものも実際にいるし、たった一言で死を選んでしまう場合だってある。このように刻々変化する人間を、また変化できる可能性をもっている人間を、現代社会の特徴とばかりにラベリングしないことが肝要である。どうしても説得で方向転換をさせなければならないときは、本人の向いていたい方向から、自分の向けたい方向を眺めさせることになる。
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「<他者の立場でものを考える>」について

2006/10/17 08:09
<他者の立場でものを考える>」について
コミュニケーションは、通常、「言葉」という手段を使って行われると思いがちです。言葉という言語を組み合わせる方法を用いなければ、コミュニケーションは至難なものです。コミュニケーションは、聞き手が受け取った通りに、相手が理解し、解釈した通りに伝わっていくものと知的に判断をするべきです。コミュニケーション技法とは、このような難しいコミュニケーションを効果的に実施できるような技能・技術・態度を総称するものとして捉えます。言葉は単一記号の組合せにすぎませんから、情念に欠けています。コミュニケーションについての考え方は、話し手が伝えた通りに伝わるものと考えるのではありません。正確にコミュニケーションするには、「言語」以外に、「非言語」といわれる「態度あるいはジェスチャー」とか「声の調子」あるいはコミュニケートする「雰囲気状況」が、大きく関わっているとみられる理由がここにあります。ですから不完全な道具であることも忘れてはなりません。しかし、媒体となる音声や画像またはドキュメントなどでは、同じ言葉を使っても、伝える側と受け取る側とでは、その解釈や語感などが食い違っていることが少なくありません。
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<他者の立場でものを考える>

2006/10/17 08:08
 その時には、相手の脈略に沿ってわからないところはその場で質問しながら進めてゆけばいい。自分と他人は別の個体であるから仕方ない。けれども、それを現実の場面で即時的に出来るようになるためには、努力が必要である。日常、他者の立場でものを考える、相手との辞書を作りながら実践しなければならない。

「そんな面倒なことは出来ない」という読者は、努力してみようと思っていない。これは言うことは簡単でも、実行はなかなか難しい。第三に述べなければいけないことは、自分と他人は異なった個体ではある。しかしながら、同一の存在様式を持った存在でもある(同型である) 。ということである。

 自分を中心に考える人間関係の四側面は、全く同様に他者を中心にも考えることが出来る。と、いわれるのもこれである。しかし、他者覚知で相手の辞書が完成しているなら、意外と相手の立場に立つことは出来るものである。現実の場面で対応ができないのは、“内なるもの”として他者との関係を希求していない証拠でもある。
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<自分を活性化させる>

2006/10/16 08:01
“自分は自分のことを知っているのか”“自分は自分の言いたいことをいえているのか”“自分の感情や価値観が、相手を見るのを妨害していないか”“自分は相手と共に同じ行動をとれるのか“などを分析してみればいいのである。自己覚知、自己主張、他者覚知(他者理解) このように輻輳した側面をクリアーに見抜くのは大変なことかも知れない。以上のように考えてくると、他者に働きかけるということは、実は自分を活性化させることであるし、常に自分を自分が保障できるということを、行動を通して示すことになる。序章でも述べたように外的基準や“外なるもの”としての知識に終わらせてもらいたくないのである。しかし、自己覚知を基点にして、丹念に自己分析しながら実践すれば、それほど難しいことではない。むしろ、答えを出す前に当然考えておかなければならないことを述べている。

 ハウツーものの傾向が多い中で、この輪読※の記述をここまで読まれた読者に、本スタディがハウツーではない新しい意図で編まれたものであることをあらためて知っていただきたい。最終的には行動的な一致を持ってゴールとなる。「あの本にああ書かれていたから」と鵜呑みにされたのでは何の意味もない。本スタディの内容から読みとれるものをベースにして、自らの判断を確固としてもらいたいのである。「実務はそんなに暇ではない」という読者にこそ“外なるもの”でものを見てしまう危険が迫っているのである。しかも、この連載の中でも述べたように、自らがその答えに責任が持てなければ意味をなさない。本輪読を終わるにあたって第一に述べなければならないことは、このスタディは、いわゆるハウツー(how to)ものでないということである。

 つまり、いついかなるときでも、人前で自分の信ずることができるということが大切である。そして、そのことを冒されたり損なわれたりしないように守るためには出来るだけ多くの関係の束を自らが作ることである。コミュニケーションとは対人関係の中で他者合一を図るための手段なのである。<対人関係状況の側面をとらえる>を、どういうときにどうすればいいという答えはほとんどない。第二に述べなければならないことは、実践に際して、各章で述べた対人関係状況の側面がクリアーに見えるようにならなければいけないということである。他者合一、これらが現実の対人関係の中で、決して、一つずつ独立して出現するようなことはない。

 さらに、Aの自己主張はAの自己覚知に基づいたものである、しかも、Aの他者合一はAの他者覚知に基づいたものである。わかりやすく言えば、対人関係の状況にはさまざまなものがあるが、ある状況では助け合いがあるとか、逆戻りをするというような関連があると述べたことがそのことである。事実、コミュニケーションをしているAとBにとっては、Aの自己覚知はBの他者覚知と関連すると、Aの自己主張はBの他者合一と関連している。ある特定の対人関係状況の中ですべての側面が同時進行している。したがって、それぞれの側面が、どの側面とより深く関連しているかを状況の中でとらえられなくては、実際の対人関係の改善に役立たないのである。※『原典:人と関わる心理学、松浦・嘉部著、学陽書房刊』
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「<共有願望>」について

2006/10/15 09:02
<共有願望>」について
 さてそのロジャーズの「共感的理解」の説明はどうであろうか。ロジャーズの第三の条件は、「共感的理解」または「感情移入的理解」(empathicunderstanding)である。共感は、人が他の人と話すその瞬間に起こるものである。最近では、ほとんどすべての立場のカウンセラーが、「共感」(empathy)をカウンセラーの必須の条件として承認しているようである。ロジャーズもその晩年には、このような状況について述べている。 

「クライエントの世界がこのようにカウンセラーに明らかになり、彼(女)がその世界の中を自由に歩き回るとき、彼(女)は、クライエントのよくわかっているものを、自分も理解していることを伝え得るばかりではなく、クライエントの体験の中では、ほとんど意識されていないような意味づけをも、口に出して述べることもできるのである」と。そして共感はロジャーズが初めて唱えたことのように思われているが、実はそうではない。

 フロイトに反逆した弟子であるユングは、すでに一九二一年において「共感」という言葉を用い、それは、「カウンセラーとクライエントをともに変化させる<融合の過程>である」と述べている。ロジャーズはその晩年にある本に寄稿した一章の中で、こう述べている。「あたかも……のように」という性質を含めて、この「共感」という概念は、ほとんどアドラーを受け継いでいるように思われるのである。
<4 共感的理解──カウンセラーの第三の条件>
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<共有願望>

2006/10/15 08:37
 幼児期の子供とは親との同一体験を願望しているのである、それは間違いなく共有願望なのである。たとえば子供はもらったセンベイをポイと捨て、母親の顔に手を向けて「オカシ、オカシ」と繰り返すときがある。これがコミュニケーションの本質であるとすれば、他者合一の側面でコミュニケーションを述べることは至極当然のことと考えられる。母親は言われるままに持っていた袋から煎餅を出して与えた。もしそのような意図や行為であればコミュニケーションに飢えた人間は増大し、体験を共有できる場を求め始めることになる。そのときにおいて母親は子供を遊ばせながらチューインガムを噛んでいたのである。

 ひとつひとつのセンベイを親子で食べるよりも、一つのセンベイを割って親子で食べる方が、この時期の子供にとっては“共有できた”との実感が強いのである。まだ言葉の意味もわからない、カタコトしか話せない二歳くらいの子供が、母親に向かって「オカシ、オカシ」と叫んでいる。上述の母親が偉かったのは、チューインガムを子供の眼前で口から出してしまったことである。コミュニケーションの本質が共有願望にあるということは、幼児の行動の中によく見られる。しかも、お煎餅を代わりに無理して食べさせなかったことである。

 ママが悪かったわね」と言って紙に包んで自分のポケットにしまった。現代社会は益々複雑化、多様化し、理想のコミュニケーションとはほど遠い方向に進みつつある。そして猫の子供のコミュニケーションは、母親が自分と同じ行動として、チューインガムを噛んでいないということを保障することによって終わったのである。最近の母親の多くは「何を言っているの、この子は」と言わんばかりに怒鳴り返したりしている。ところが現実は、それだけの余裕と時間を人間には与えてくれていない。そして、形式的な一致の中で他者合一をとらえ、済ませている。

 相手の意図・脈絡を共有体験として感じとることができてこそコミュニケーションといえるのである。というように考えれば、他者合一というものは、まさにこのことである。
いろいろなミニコミ運動、地域の自主的サークルなどがこれである。また考えようによっては、パック旅行も現実に共有できる体験を作るためのものと考えられるのである。母親は当惑したような顔をしていたが、「あっ、これ」とチューインガムに気がつき、口から出し、「これはK君にはまだ早いからね。すると子供は静かになり、自分の遊びに戻ったのである。また、対人関係において、対人関係状況の側面において、他者合一というものは、ある期間内の収入・支出の全部について行う決算的意味を持っている。
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コミュニケーションの本質〜〜

2006/10/14 08:29
<共有体験とコミュニケーションの終わり>
 それでは、コミュニケーションは収束するまで継続するけれども、後を引かないコミュニケーションは存在するのだろうか。コミュニケーションは最終的には行動的な一致が裏づけられるまで続くのであって、表面上の一致だけでは行動にまでは及ばないのである。ということは、その過程にあったコミュニケーションは終わっていないことを意味している。この表現が意味するものは、その時のコミュニケーションが食い違っていることを示しており、今もそのことを考えているといった、終わっていないコミュニケーションの事態なのである。現実には言葉のやりとりや行動はなくても、自分の中で継続してコミュニケーションは続いているのである。この意味は“AはBと共有する”という意味なのである。

 日常生活でよくこのような表現を耳にする。筆者(※)はここにコミュニケーションの本質を見ると同時に、なぜ、他者合一(with others)の側面でコミュニケーションのことを取り扱わざるを得ないかという必然性を感じるのである。宴会の後で、幹事の愚痴を聞く会などの二次会を開き、その不充足感をごまかしているに過ぎないのである。コミュニケーションは、はたしてAとBの一致ということで終わるのであろうか。少なくとも“充分に話せた“という感覚を持ったときであることは事実である。日常生活でAとBがコミュニケーションをすると考えるとき、われわれは A communicate to Bと表現する。

「あのときはたしかに××××と言ったじゃない」「あのときはこう答えたはずだ」と言ったような表現である。それはどんな状態なのだろうか。これが意気投合である。あるマスコミ解説者が指摘しているが、A communicate with Bと表現するものがある。そしてこのような状態のとき、おそらく、AだBだ、私だ貴方だという現実的事実よりも、二人が体験している共通の話題自体が鮮明に残っているはずである。だからこそ、後々までその不充足感はつづき、何か事あるたびに現れてくる。“AがBに伝える”というのがこの意味である。

 つまり時間を共有し、体験を共有している事実だけが残るのである。結局そこにあるのは形式的な一致だけであり、行動的な現実まで含んだ意図ではない。宴会をやろうとの誘いにのって幹事を引き受けさせられ人にとって、そこに至までの過程にあったコミュニケーションは、それで充分といったものだったのであろうか。しかしもっと重要な意味がコミュニケーションにはある。おそらくそうではあるまい。“どちらが何をする”ではなく、“二人がこれをする”であり、“どちらがしてもよい”ことなのである。
※ 『原典:人と関わる心理学、松浦・嘉部著、学陽書房刊』
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<コミュニケーションと対人関係の四側面>

2006/10/13 06:55
 四側面とは最後に一致した結果を持ちたいとする、@他者合一の側面である。これらどの側面が抜けたとしても充分なコミュニケーションは出来ない。逆に考えるならば、コミュニケーションは、対人関係そのものであるとも考えられるのである。別の言い方をするならば、コミュニケーションはどのような事態になると終わるのかと言うことである。これについてを以下に述べる。

 ということになれば、コミュニケーションとは実は人間関係の四つの側面すべてにおいて、重要な意味を持っていることになる。つまり、相手を誤解しないように自らの癖を知っていなければならないというなら、A自己覚知の側面。そして、自分が必要と認めた情報を伝えるという、B自己主張の側面。

 さらに、相手がどのような人物であるかを理解しようとする、C他者理解の側面である。しかし、ここではその上に、他者合一の側面としてコミュニケーションを扱う意味が別にある。つまりコミュニケーションの最終ゴールはどこになるのかという問題である。
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「コミュニケーションとは〜〜」について

2006/10/12 10:51
コミュニケーションとは〜〜」について
概要
 コミュニケーションは、通常、「言語」というシンボルを使って行われます。けれどもそれはすべてではありません。人間のコミュニケーションの主要な部分は、話し言葉というシンボルによるものですが、他にも絵画・写真・ジェスチャーのような非言語系のシンボルもあり、言葉に劣らず重要なものです。

 いずれにしても、同じシンボルの話し言葉を使った場合、伝える側と受け取る側とでは、その解釈と語感などの論理性や感情に食い違っていることが少なくありません。正確にコミュニケーションを行うには、「言葉」以外の、コミュニケーション動作がつたえる「態度あるいは表情などのジェスチャー」と「声の調子」が、言葉の信頼性に大きく作用しているとみる理由がここにあります。

シンボルは、遺伝によって伝承されるものではありません。後天的学習によってはじめて獲得されるものです。学習の内容は、一定の社会で共通に理解されている話し言葉の意味であって、社会が異なれば、意味も異なることも多くあります。また、おなじような社会でも年齢差があれば、意味が異なることもすくなくありません。

ようするに、コミュニケーションは、文化の中心にあってそれぞれの役目を果たす人間には、切り離すことの出来ない取り扱いの難しい道具になります。
 コミュニケーションにおいては、こちらが伝えた通りに相手に伝わりません。大声で話をすると、大声で返事をするように、相手の認識で受け取られます。つまり、相手の知能で理解されるように伝わるものと考えられます。

 コミュニケーション技法とは、このように複雑な仕組みによってなりたっているコミュニケーションを、効果的に実施できるような技能・技術・態度を総称するものとして捉えられます。
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情報が意味するもの〜〜

2006/10/12 10:14
<情報と曖昧さ>
 これが情報というのはつぎのようなものである。情報という呼び方そのものがそういう意味を含んでいることにもよるが、情報はその曖昧さがあればあるほど情報量が増えるものである。それは、情報産業の情報が消費者に使いやすい形に整理されているのと全く同じである。つまり、その主観的判断情報は相手があって成立し、しかも客観的事実だけではなく主観的な判断が加味されているのである。それでは情報というのがどういうものであるかについてもう少し詳しく述べてみよう。A君がB君に情報を伝えるという場合を考えてみよう。

 たとえば株の値動きに関する情報といった場合、ある銘柄が三百円、別の銘柄が二百七十円という株式市況そのままの情報もあれば、今現在いくらであり、今までの推移から見るともう少し上がりそうだというのも情報である。さらに、買った方がいいかどうかを判断したものも情報である。この意味を考えてみるとコミュニケーションが送り手──情報──受け手という図式で理解されることの起こりやその理由がわかってくる。したがってA君はB君がどのような情報をほしがっているかを考慮した上で、それに適した情報を伝えなければならない。

 コミュニケーションは送り手と受け手とを情報(内容)でつないだものであると述べてきた。だが情報の内容に、実は脈絡の記号化や記号の脈絡化という過程がある。そのためコミュニケーションが可能となっている。特に一般に“情報”という使い方をする際には、まさに、株式市況そのままの値動きを伝えてあるものそのものよりは、その事実から推論されるものや、その事実をどう判断できるかといった形で提供されるものを情報という場合が多い。つまり、情報はもとより客観的な事実をデータとして与えることそれだけでなく、むしろ、データに主観的判断が加味されたものである。

 ここにコミュニケーションは成立するのである。しかも、情報を商売にしているところでは、その情報が消費者にとって必要な、使いやすいものでなければならない。つまり、コミュニケーションはわかってもらうことを前提になされているということである。しかも、相手にわかりやすい形で伝えられなくては誤解を招くことになる。そして情報を理解するという段階においては、その情報の唯単なる客観的データに近い部分についてではなく、それに付随した主観的判断まで含んでいる。そしてその主観的判断は相手が要請する内容に一致する方向に意味づけられているものである。
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<コミュニケーションの働き>

2006/10/11 08:24
 送り手にとっては、伝えたい脈絡を効率よく言葉(共有の記号)に記号化する過程があり、受け手にとっては記号の持つ脈絡を送り手の事実に近い形で読解する過程である。換言すれば、コミュニケーションは相互依存性の上に成立している。したがって、異文化間コミュニケーションとなると大変になる。

 カルチャーショックを現実に感じているものが多い。カルチャーショックというと外国のことと思われ勝ちである。国内にも文化基盤の異なる部分がかなりある。その第一は相互理解であり、第二には感情交流であり、第三には欲求の交流である。言語的意味を知っているだけでは必ずしも現実的な共有の記号にはならないからである。だがそれとは限らない。

 といえば、大きく三つのものが挙げられた。その人物の関係的存在を育んだ文化基盤が全く異なるからである。そこで起こるのがカルチャーショックである。だからこれらすべては基本的に関係的存在をその基礎としており、当事者間の関係的存在の交流ということでまとめることができる。ではこのようなコミュニケーションが対人関係の中でどのような働きをしているのか?

 つまり、相互に自分を確認し、相手を確認する過程なのである。したがってこの両過程とも、それぞれの当事者が、自分の関係的存在を充分に機能させており、その機能をあらかじめ想定した上でコミュニケーションが成立しているということである。
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<キャッチボールの意味>

2006/10/10 07:53
「話し手の学者が幕藩体制といったので、聞き手の速記者は麦飯体制と書いた」。ディスコミュニケーションの多くはこの例のような文脈の誤解によるものが多い。もともと楽しい筈のコミュニケーションである情報であれば、本人の意図が伝わり、その意図のやりとりがボールとなり、キャッチボールを成立している。これは、ある著名な歴史学者が、論文を口述筆記してもらった。そのとき発生した差異のことである。

 普通であれば歴史学者という事実が暗示する脈絡がある。受け手がそれを把握してさえいたら、このようにはならなかった。しかし現実生活の中にはその個人が持つであろう脈絡を明示するような指標は少なくない。ということになれば、その個人の関係的存在を、脈絡を明示する一つの指標として、送り手が理解しようとする姿勢をとるのは至極当然なこととなる。もっとも、幕藩体制のことについては、送り手の文脈を充分に理解できていなかった結果である。

 つまり、どこに話し手の方法(構文)や意図(脈絡)があるのだろうかと注意することである。そして、これがコミュニケーションでのボールであるとすれば、球筋には多様な変化に富むように、決して具体的な言語や、文章がボールなのではない。また、コミュニケーションの際には状況にあるすべての事実(対象)に対して、その関係を知ろうと努力し、その関係的存在から想定できる脈絡を相手に当てはめながらその意味を解析しながらコミュニケーションをしていくのである。
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「「<親和動機と状況の質>」について」について

2006/10/09 08:13
「<親和動機と状況の質>」について」について
親和動機・社会的スキルの出会い系サイト利用に及ぼす影響
〜孤独感からみた利用者の分類〜

 出会い系サイト利用者といってもその利用動機は一様ではない。どのような目的で出会い系サイトを利用するか、また出会い系サイトにどの程度のことを期待するかは人によって異なる。そこで本研究では、出会い系サイト利用者がどのような利用動機からサイトを利用しているのかを明らかにし、何が利用動機に影響を与えているのかを検討する。なお、出会い系サイトの利用動機に影響する変数として、特に孤独感、親和動機、社会的スキルに注目した。

 そのため、出会い系サイト利用者の中でも拒否不安の高い者は、出会い系サイトを通じて普段自分の言えないことを話すことを目的とする場合が多いのであろう。
ところで、マクロミル・ドット・コム(2001)は出会い系サイトの利用経験がある者および利用希望者に、出会い系サイトを利用した理由および利用しようと思う理由を尋ねたところ、「なんとなく興味があったから」と回答した者が全体の41.6%であった。そのため、出会い系サイト利用者のうち孤独感の高い者は低い者よりも、CMCの匿名性や距離的制約・社会的立場の制約からの解放を高く評価し、出会い系サイトを通じて人と知り合おうとする動機が高いのではないかと推測される。

 ところで、CMCの社会的ネットワークと社会的スキルについて、五十嵐(2002)は未知の相手とのCMCの社会的ネットワークに対してもFTFCの社会的ネットワークと同様に社会的スキルが正の影響を与えていることを示した。このことから、出会い系サイトの利用者はコンピュータ媒介型コミュニケーション(Computer- Mediated Communication;CMC)を行っていると言えるであろう。一方、親和傾向の高い者は、日常でも積極的に他者と知り合おうとし、その延長として出会い系サイトを用いることが考えられる。

 よって、出会い系サイト利用者の中でも社会的スキルが高い者ほど人と知り合おうとする動機が強く、また実際に知り合う人数も多いであろう。CMCにおいても未知の相手と知り合うためには、相手に積極的に働きかけるスキルが重要となってくるのだろう。 CMCにおいてもFTFCで必要されるのと同様の社会的スキルが必要とされている。また、出会い系サイトの利用者が実際にどのくらいの人と知り合うことができ、どの程度効果感を得ているのかということと、その結果出会い系サイトの利用期間がどのように変化するのかということも検討する(Figure 1)。
出典<http://esprix.net/garde/scp/vol/vol045.pdf#search='%90e%98a%93%AE%8B@'>
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コミュニケーションとは〜〜

2006/10/09 07:48
<コミュニケーションの実際>
 実例を挙げるとA婦人がB婦人に向かって、「昨日、山へハイキングに行きましたの」と言ったとき、それに応えてB婦人は「ウチは海に行ったんですの」と言ったとする。けれども、これを受けたB婦人は“山へハイキングに行った”という内容は受け取ったものの、A婦人の意図を理解していないのである。

 これはどうしてコミュニケーションにならないのかというと、先に述べたようにコミュニケーション成立の条件が確認できないからである。具体的内容(情報) は本人の伝えたい文脈のごく一部に過ぎない。主婦達の立ち話の例をあげれば、コミュニケーションはキャッチボールであり、同じタマを互いにやりとりするのでなければ、楽しいコミュニケーションはできない。A婦人は何らかの意図を持って、言語的シンボルで発言した。

 B婦人がこのとき、少なくとも「どちらへ」とでも応じていたら、会話はもっと楽しいものへ移り、もっとコミュニケーションらしいコミュニケーションになっていたのである。この一文に含まれた本人の意図・文脈は途方もなく外れているのである。次の例では、おそらくA婦人は“山へ行って”“楽しかった”ことを伝えたかったのである。

 その内容は“山へハイキングに行った”に限られたのである。これではディスコミュニケーションである。つまりA婦人の頭の中では、自分が伝えたい事柄の、数々ある長い文脈の一部を取り出して言語を組合せ、それをメッセージにして発言している。
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コミュニケーション

2006/10/08 08:50
 シンボルの受け渡し〜〜<コミュニケーションの成立>
 人間の場合、ほとんどのコミュニケーションは言語をシンボルとして行われている。この発信者、シンボル、内容など三点のどれがかけてもコミュニケーションは成立しない。次に伝える内容が存在している。この節では言語的コミュニケーションを中心に考えることにする。

 しかし、言語を用いない非言語(ノンバーパル)コミュニケーションも存在している。身振り、表情、色、音などをシンボルとして用い、コミュニケーションを行うのも事実である。コミュニケーションと一言で言っても、それが意味するものは実に広範なものである。

 一般には、他者に伝えようという意図を持って意志を表現し、それを受け取り、何らかの態度に理解することをコミュニケーションといっている。他者合一の側面として、“相手に働きかけるには”ということについていままで述べてきたわけであるが、ここでは具体的な手段としてのコミュニケーションを取り上げる。

 要するに、発信人がいて、そこには意図が存在しているのである。ここには情報という語があてられる。そして最後に、受信人がいて、内容と意図を理解すると言うことである。しかし、これだけではまだコミュニケーションの成立は充分ではない。つまり、手段(媒介)がなければいけないということになる。
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<関係支配の固定化と地位>

2006/10/07 10:26
 関係支配の固定化という意味では、地位は役割を果たすところに生じ、役割を果たさなくなれば地位も得られなくなると言うことになる。日本的現実ではまさに“しかたないこと”の一つであるこれは大きな意味では、依存的という日本の風土が、地位だけを是認したものであるようにも思えるのである。役職づくりに汲々としている様はまさに支配の固定化である。落語にある長屋のご隠居もまさにこれである。

 このように、状況までも支配してしまう関係支配も実際には存在するが、多くの場合は状況まで支配するような関係支配は見当たらない。むしろ状況の中で既にある関係支配を変えるような情報を得ることの方が多いのである。関係支配を支持する方向で情報を入手できるのであれば、その関係は益々強くなるであろうし、関係支配を拒否する方向で情報を入手するのであれば、その関係は弱体化する。

 関係支配を支持する方向で情報を入手できるのであれば、その関係は益々強くなる傾向に進むであろうし、関係支配を拒否する方向で情報を入手するのであれば、その関係は弱体化する。むしろ状況の中で既にある関係支配を変えるような情報を得ることの方が多いのである。このように、状況までも支配してしまう関係支配も実際には存在するが、多くの場合は状況まで支配するような関係支配は見当たらない。

 長屋のご隠居が“ご隠居”といわれるのは、それなりの関係支配を持っているということである。また、その関係支配をよく機能させているという両側に、さまざまの性質をもった存在の、それぞれの面があるからこそなのである。しかし現実には地位ばかりに目がいって、役割を果たさないものも結構多い。また、組織体の中で、地位だけが浮かび上がっている実態のない組織も多いようである。

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